そば
【縄文時代】日本のそばの歴史は9000年前から始まっていた!
2022.02.04

引っ越しそばや年越しそばなど古くから日本の文化に根付いている「そば」。
そばがどこで生まれ、どの様に日本に広まったのか解説します。
街に多くの店舗がある「立ち食いそば」や日本では伝統行事として毎年食べられている「年越しそば」まで「そば」は私達日本人と関係が深い食べ物です。
ラーメンやうどん、そうめんなど麺料理はそば以外にもたくさんありますが、「日本」がつくのは「そば」のみです。
しかし、そばがどこで生まれ、どの様にして日本という国に深く根付いていったのか知っている方は少ないかもしれません。
本記事では、そばの発祥や日本におけるそばの歴史を解説していきます。
1.そばの歴史

実は、日本のそばも元を辿れば、日本以外の大陸から来た食べ物です。
ここでは、そばがどこでうまれ、日本においてそばがどのような役割を果たしていたのか、どのように日本にそばが広まったのかを紹介していきます。
(1)そばの発祥
そばの原産地は、DNA分析などから中国雲南省にある長江とメコン川の上流にある秘境だと言われています。
日本においては、高知県内では9000年以上前の遺跡からソバの花粉、さいたま市岩槻区でも3000年前の遺跡からソバの種子が見つかっており、かなり古い時代からそばが栽培されていたことが分かります。
また、「そば」は歴史的文献では、797年に完成した「続日本紀」に初めて記載されています。
(2)そば切りの歴史
鎌倉時代に中国から挽臼が伝わり、そば粉をお湯でこねて餅状にした「そば切り」ができました。
日本においては、長い間この餅状のそばがポピュラーでした。
それまでは、そば粉のみで作っており、崩れやすかったため麺状に形成するのが難しかったためです。
寛永に朝鮮の僧侶が、小麦粉をつなぎに使う方法を日本に伝えたことにより現在のそばのような麺状にに加工できるようになったと言われています。
しかし、以下の2点により手に入りにくい地域では、卵や自然薯など代替品でのソバ作りをおこないました。
- 小麦が高価であった
- 収穫が困難だった
そのため、そばは各地方でつなぎへの違いとこだわりがご当地そばとして残っています。
参考:そばの歴史をそば屋が解説!起源は縄文時代にあった・・・!
(3)そばは飢えをしのぐ食材だった
「続日本紀」には西暦722年に救荒作物としての栽培をしているbとの記録があり、この頃からそばの栽培が行われていたことがわかります。
これ以前の記述にはそばの記述はないものの、この後の西暦723年と839年にも、同様にそば栽培についての記載があるためこの時代からそばの栽培がはじまったことは確実でしょう。
ただ、そばに関する記述は多くありますが、日本でそばはあまり食されていなかったと考えられています。
その理由として以下の2つが挙げられます。
- 硬い殻を向くのが大変で調理方法があまりなかった
- 収穫量が少なかった
「そば切り」という調理方法が出来るまでは、救荒作物としてしか栽培されておらず、日常の食品としては不向きだったと考えられています。
2.江戸時代に蕎麦が人気だった理由は「脚気」の大流行によるもの

江戸時代にそばが人気になった理由は「脚気」という病気も関係しているかもしれません。
「脚気」とは、ビタミンB1が不足して起こる末梢神経の障害と心不全による全身のむくみが起こる病気です。
現代では、ビタミン欠乏症の1つであるとわかっていますが、当時は解明しておらず謎の病でした。
江戸時代になり玄米よりも白米を食べる方が多くなったこと、その頃の江戸時代ではおかずを少しにして白米を多く食べる習慣があったことから、ビタミン不足に陥り、脚気が大流行しました。
そんな時に、ビタミンが豊富に含まれているそばが一役買ったのではないかといわれています。
3.4種類のそば粉

ここまで、そばがどこで生まれ、日本でどのように広まっていったかを紹介してきました。
ここからそばにとって最も重要な「そば粉」について詳しく紹介していきます。
蕎麦の実は外側から殻、種子、胚乳、胚芽となっており、どの部分を使用するかで、そば粉は4種類に区別されます。
(1)1番粉
1番粉とは、その名の通りそばの実の中心部分の胚乳をふるいにかけ出てくる粉です。
栄養成分は、でんぷんが77.5%と多く含まれており、たんぱく質は6.1%程度しか含まれていません。
一番粉をを使ってできたそばは、色が白く、一般的にそばと認識されているものよりは、風味もありませんが、特有のほのかな甘味があります。
また、でんぷんが主成分であるため、歯切れや喉越しがよく、品の良いそばが仕上がることで知られています。
(2)2番粉
一番粉を挽いて、もう一度そばの実を挽いたものは「2番粉」といいます。
2番粉には、先述したそばの実の内側部分である、胚芽や胚乳が豊富に含まれており、炭水化物やタンパク質などの栄養素をバランスよく摂取できます。
色は淡い緑谷やクリーム色を混ぜたような色合いをしており、そば独特の味や香ばしさは1番粉よりも強く感じられます。
2番粉を使用すれば、味や食感を兼ね揃えたバランスの良いそばが出来上がります。
(3)3番粉
2番粉を挽き、更に挽いた粉を3番粉といいます。
1番粉、2番粉と比べて、胚芽・胚乳より外側の部分が含まれるのでタンパク質やルチンなどそば特有の栄養素が多くなります。
色も2番粉よりも黒色が強くなり、風味が強くあることが特徴です。
そばの実の繊維質も入ってくるため、三番粉を使ったそばは繊細さを求める1番粉ようなそばよりも、豊かな風味と素朴な食感を楽しめるそばらしいそばといえます。
(4)4番粉
3番粉の後、そばの実の外側ギリギリまで挽いたそば粉は「4番粉」や「末粉」と呼ばれます。
他の粉よりもタンパク質と食物繊維が多く色合いも黒いため。これまでの粉よりも粗めの粉と言えるでしょう。
しかし加工工程でも負けない力強い香りを持っているため、香りが強いそばがお好きな方におすすめです。
また。香りが強く風味が失われにくいため、加工工程の多い、乾麺やゆで麺などに多く使用されています。
4.種類別のそばの歴史

日本においてそばと言えば、具材で分けるだけでなく、風習としてそばを食べる文化もあります。
ここでは、以下の3つが日本でどの様にして生まれ、広まっていったのかをご紹介します。
- 立ち食いそば
- 引っ越しそば
- 年越しそば
(1)立ち食いそば
立ち食いそばは、江戸時代から呼ばれるようになったと言われています。
特に立ち食いそばが広まったと言われているきっかけは、1657年3月2日〜4日の間に江戸中を炎に包み、街中を焼き尽くしてしまったとされる「明暦の大火(めいれきのたいか)」。
この火災によって崩壊した江戸を復興するべく、県外から多くの労働者が集まりました。
その際、労働者のために外食産業が発達し、すぐに食べられて手軽な「立ち食いそば」が人気になり広まったと言われています。
また、駅で立ち食いそばの発祥はJR「軽井沢駅」と言われています。
1893年に新路線が開通したことにより、車両の付け替え業務を軽井沢駅で行っていました。
付け替えを待っている客を狙い駅のホームでそばを販売したことが始まりとされています。
(2)引っ越しそば
引っ越しそばは、江戸時代に行われていた、引っ越しの挨拶として蕎麦や蕎麦切手という商品券を、向こう3軒両隣(自分の家の向かい側3軒と左右2軒の家)に配っていたことが始まりとされています。
現在はそばやそば切手を送ることはあまりありませんが、関東では昭和の初めごろまでよく行われていた風習です。
なぜ蕎麦を配るようになったのかは、「そば(側)」に引っ越してきたことにかけた「洒落」であると言われており、以下の2つの意味があります。
- おそばに末長く
- 細く長くお付きあいを
もともとは小豆餅を配っていましたが、高価であることを理由に、安価なそばに変わったと言う説もあります。
(3)年越しそば
そばの歴史は長いものの、実は「年越しそば」と呼ぶようになったのは明治時代からです。
立ち食いそばのはじまりは、江戸時代の中期に江戸で行われていた「晦日そば」という習慣が由来だと言われています。
江戸の商人は、一ヶ月働いた奉公人を労うために毎月月末にそばを食べていました。
この「晦日そば」が徐々に形を変えていった結果、年越しそばが定着していったと言われています。
ただ、年越しそばの由来には諸説あり、以下の理由も一説として考えられています。
- そばは細く長いことから、次の年の延命や長寿を願ったものであるとする説。
- 切れやすいそばは、前年の厄災を切ると言う説
- 金細工の職人が、散らばった金粉を集めるのにそば切りを使ったことから
5.江戸の3大そばの歴史

(1)藪そば
薮そばの由来は諸説ありますが、発祥と言われるそば屋「蔦屋」が藪に囲まれているそば屋だったからと言われています。
やぶそばは、緑がかったそばと少し塩辛いつゆが特徴です。
2番粉、3番粉を使用しており、塩辛いつゆに負けることなくそばの風味を楽しむことが出来ます。
「蔦屋」の常連客の多くは忙しい職人だったそうです。
忙しい中でそばを食べたい職人が蕎麦の香りを味わえるからこそ薮そばは人気になったのかもしれません。
また、そば通の食べ方として「そばの先を少しだけつゆにつけて食べる」と言う食べ方は塩辛い藪そばが由来と言われています。
(2)更科そば
更科そばの発祥には諸説ありますが、およそ200年前にはすでに誕生していたのではないかとされています。
そば打ちの腕前に長けていた長野県更級村の「布屋」が、領主に蕎麦屋への転身を勧められ江戸に店をだしたのが始まりとされています。
更科村の「更」と領主であった保科家の「料」の一文字ずつ取り更科そばと名付けられました。
当時は団子状の「そば切り」が主流であったため、喉越しが良く上品な香りの更科そばが江戸で大きく広がっていきました。
また、明治時代半ばの最盛期には、皇后や宮家などにも出前を届けていたとも言われています。
(3)砂場そば
砂場そばは、大阪城築城の頃に生まれ、当時砂場と呼ばれる資材置き場の近くに店があったことに由来すると言われています。
砂場そばは、甘めの濃いつゆが特徴です。
砂場そばは、調理が簡単で、すぐに食べられるため忙しい労働者に向けて蕎麦屋が開かれました。
労働者たちがそばを食べ終わった後に蕎麦湯を入れて一息つくのも砂場側の楽しみの1つだったと言われています。
江戸に店を移したのは、江戸時代中期といわれていますが、残念ながら大阪には砂場そばを引き継ぐ店は残っていないそうです。
6.各地で発展したそばの歴史
江戸で広まったそばをご紹介してきましたが、江戸以外にも各地で独特の変化を遂げたそばが存在しています。
ここからは、一風変わった日本のそばをご紹介していきます。

(1)にしんそば
にしんそばは京都が発祥とされており、かけそばの上に、にしんの干物「身欠きニシン」を甘露煮にしてのせたものです。
1882年京都で芝居茶屋を営んでいた店の主人「松野与三吉」が考案しました。
松野与三吉は、京都の人々の大事な栄養源である「にしん」を古くから食されている「そば」と合わせることはできないかと考え、出来たのが「にしんそば」であると言われています。
また、北海道にも同じく郷土料理として、同じく甘露煮を乗せた「にしんそば」があります。京都のものは薄口醤油を使用し優しい味付けであるのに対し、北海道のものは濃口醤油を使用し、すこし甘い味付けになっているという違いがあります。
(2)瓦そば
瓦そばは、熱した瓦の上に、茶そばと具を載せて、温かいめんつゆで食べる料理です。
西南戦争の際、熊本城を囲む薩摩軍の兵士が、野戦の間に瓦を使って野草や肉などを焼いて食べたという話をヒントにして、山口県で旅館を営む高瀬新一によって考案されました。
当初、宿泊者向けに提供していたものでしたが、評判となり周りの温泉でも提供する店が増えたことで、山口県の名物料理として広まりました。
山口県では、蒸した茶そばとつゆのセットがスーパーで販売されており、家庭でも食べられています。
7.江戸時代から日本人のソウルフード「そば」

本記事では、古くから日本の文化に深く根付いている「そば」の歴史やそばがどの様に広まっていったのかなどを解説してきました。
9000年以上前の遺跡からそばの花粉が見つかりましたが、きちんとそばとして食べられる様になってからを考えると、ここ400年程で日本の文化に根付いている事になります。
日本人の食文化や心に「そば」という食品が適していたのかもしれません。
進化していく食文化ですが、日本人の食文化から「そば」がなくなることはないでしょう。